2010年10月17日 (日)

はしゃぎすぎて格好悪い大人もいいと思う。

会社の同僚達と福井旅行をしてきた。

素敵なminicooperに大人4人ぎゅっと乗り込んで出発。

ところどころで屈伸運動をしなければエコノミー症候群の危機。

途中モーニングをしながら、旅プランを適当に組み立てて、福井へ向かった。

結果は、1泊2日の中でこんなに笑えたことがあったのかというほどの楽しい旅。

それぞれ性格はばらばらだけれど、基本的に何でも楽しむことができるし、何でもおいしく食べられるし、好奇心があって、何がしてみたいっていう意見も持っている。

そういう共通点があったからこそさらに楽しめたんだと思う。

「瓜割の滝」がきれいで冷たくて苔むした緑が鮮やかで、

「かずら橋」はゆらして渡った。

車内でかかる音楽を口ずさみながら、

高く澄んだ空の下、車窓から単線列車を見送った。

夕暮れの東尋坊に間に合わなければと、

車を乗り捨て、草むらをダッシュした。

波の高さにどきどきしながら、どんどん濃い桔梗色になっていく空を見守った。

露天風呂でなんだかんだ語り合って、夕食は胃の限界まで食べて、

夜中はいびきで起こされた。

「永平寺」の静けさと神聖さに少しだけ神妙な顔つきになった後、

目当てのソフトクリームを食べるために道に迷った。

ワイナリーで一気飲みを繰り返し酔っ払い、

滝にはしゃいでパンツまで濡れたいい大人達。

ファミレスで写真のスライドショーを見返して、涙が出るほど笑った。

 

年齢や、性別や、そんなの関係なしに思い切り笑えて楽しい時間を共有できる人達に会えて、やっぱり私は人に恵まれてるなぁと思う。

こういう関係って、なにものにも代えられない。

こういう時間だって、なにものにも代えられない。

 

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車内で久々に好きな「星のラブレター」を聞いていたからか、今になって一人the boomリバイバル。

『中央線』

悲しい歌なのかもしれないけど、聴くたび優しい気持ちになれる。

 

君の家のほうに 流れ星が落ちた

僕はハミガキやめて 電車に飛び乗る

今頃君は 流れ星くだいて

湯舟に浮かべて 僕を待ってる

走り出せ 中央線

夜を越え 僕を乗せて

逃げ出した猫を 探しに出たまま

もう二度と君は 帰ってこなかった

今頃君は どこか居心地のいい

町をみつけて 猫と暮らしているんだね

走り出せ 中央線

夜を越え 僕を乗せて

 

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2009年10月25日 (日)

ペルー・センチメンタル・ジャーニー(リマ再び編、最終章)

トロントの滞在もあと2日だ。

昨日は以前働いていた寿司屋さんで食事。午後6時に入店して、店を出たのは午前1時過ぎ・・。最長記録。居心地が良くてついつい長居をしてしまった。前回お邪魔した際に泥酔してしまったため今回はほどほどに。二日酔いにならない程度においしいお酒とお寿司を頂いた。

次連絡をする時は、筋の通ったいい男を連れてくるようにボスから約束をさせられた。いつになるか分からないけれど・・・約束を守りたい。

旅日記はこれで最終章になる。長かった。

 

<10月12日>

お昼過ぎに寝台バスは無事リマに到着。14時間以上に及ぶ長距離バス。

深夜トイレに行きたくなって席を立ったのだが、運転が荒すぎてトイレにたどり着くまでに酔いそうになった。用を済ませた後便座から立ち上がった瞬間カーブにさしかかったらしく、急カーブにあわせて頭部を壁に激突、くらくらしたまま再び眠るという感じ。絶対に体に良くない。

リマに着いたらそのままホステルへチェックイン。今夜深夜発の便にてボストンへ戻るが、それまでにシャワーを浴びて少しでもベッドに横になりたいということから。

メールをチェックすると、日本の親友から入っていた。安否確認とともに、日本帰国したらその週末に夜遊び、飲みの予定を入れているとの報告。日本で夜遊びとか・・・本当にくらくらしそうだ。それでも彼女の笑顔が頭に浮かび一人にやにや。早く会いたいなぁ。

同部屋にイスラエル人のガリという女性がいた。一人で3ヶ月間旅を続けているらしい。コロンビアを絶賛。セザールもそうだったのだが、南米でコロンビアの旅を絶賛する人が多い。危険というイメージがあるが、ブラジル、ベネズエラに比べればまだ安全で人も素朴で優しく、自然の美しさが半端ないらしい。次の行き先はコロンビアに心揺れつつある。

軽く昼寝をしようかと思ったが、なぜか眠れず、結局読書をしたりしてのんびりした後は再び街をぶらぶら。たいして見るところもないため、ビーチまで歩いた。

夕暮れが近づき、空にはハンググライダー達の姿がちらほら。美しい光景だった。

これがペルー最後の夕日だと思って、一人しみじみ眺めた。

夕食は奮発してパエリアと再びピスコサワーにて乾杯。やっぱりこのカクテルは強く再びほろ酔い。

フライトは深夜12時半発。少し早めにホステルを出発し空港でぼんやりすることにした。

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<10月13日>

フライトは少し遅れたが無事リマを出発。

旅の最中はほとんど日本人旅行者を見なかったのだが、空港ではパッケージツアーに乗っている人達や、いかにもハネムーンというカップルの姿もちらほら見た。彼らは一体どこにいたのだろうか。日本と南米は時差がかなりあり、さらにこんな標高もあるのに、、1週間のパッケージツアーなどが存在するのだから日本人の忙しさとタフさを改めて感じてしまう。

機内での私の隣りに座っている女性も日本人だった。

私は彼女(キョウコさん)もすっかり日本からの観光と思っていたのだが、実際話しをしてみると全く違っていた。

キョウコさんを初めて見たとき、私の母親と同じくらいの年齢かと思ったのだが、実はすでに67歳とのことだった。肌につやがあり、背筋がぴんと伸びていて、着ている洋服も動きやすくてセンスの良いものだった。

キョウコさんはJICAのシニアボランティアに現在参加をしていて、2年間のボランティア期間の折り返し地点に差し掛かり、一度日本で身体検査を受けるため帰国するとのことだった。アレキパで現地の人達に洋裁を教えているとのことだ。

彼女は明るく、いかにも意思が強そうで、そして心から今の自分の仕事を楽しんでいるようだった。JICAへの参加は70歳まで可能であるため、このアレキパでのボランティアが終了したら、また他の場所で2年間のボランティアをする予定であること、昔からカナダやメキシコなどの各国で勉強したり働いたりしていたこと、今も独身だけど、自分の今の生活に満足していることなど話してくれた。

そしてなぜか、「香織さんも是非やってみなさい、あなたなら絶対に通るから!いい経験になるわよ。あなたB型でしょう?すぐ分かった。JICAに参加する人、B型の人が圧倒的に多いのよ!」などとやけに薦められたのだ。

私はJICAがどうのこうのというよりも、彼女の明るい表情が素敵だなぁと思いながら彼女の話を聞いていた感じだ。

往路と同様にアトランタを経由してボストンへ到着したのは、お昼過ぎだった。

ボストンでの生活を終了して、そしてこの短いペルーへの旅に出たのだが、この旅を実行してよかったと思う。自分の気持ちを切り替える良い時間となった。

現地の人達、私と同じように旅をしている人達、日本人。さまざまな人達と出会って、少しだけでも時間を共有して、そして話ができた。

当然いろんな生き方がある。いろんな生き方があっていいんだ。

この間読んだある本のあとがきに以下のようなことが書いてあった。

『目に見えるものの不確かさの中に目に見えないものの確かさが隠され、目に見えないものの不確かさによって目に見えるものの確かさが保障される』

なんだか頓智のようだ。でも、きっと簡単に言えば、要はこの世界なんて、結構これでも完璧に完成されたものなのかもしれない、ということなんじゃないだろうか。

どこかで満ち足りて消費尽くされているものが、どこかでは不足して渇望されている。

良くも悪くも全てはきちんとバランスが取られているのだと思う。

幸せか不幸せかなんて、それは人によって定義が違う。そしてそんなものは日々変わっていくんだなぁと思う。

こうでなくてはいけないなんて生き方はないようだし、そんなに大袈裟ではなくても、こうでなくてはいけないやり方なんてない。

小さなことでしょっちゅうくよくよするのだけれど、そんなんもひっくるめて、結局はたいしたことないのかもしれない。

始めにも言ったかもしれないが、このタイミングでこの旅をしたこと。南米に呼ばれた気もする。そういえばケーナの響きがとても懐かしく聴こえた。

グラシアス、そしてチャオ、ペルー!!

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2009年10月24日 (土)

ペルー・センチメンタル・ジャーニー(コルカ渓谷編)

トロントは金曜、土曜と雨らしい。風が強く寒い。

相変わらずのんびりと過ごしている。昨日は友人の家に泊まったのだが、以前はその家の3階に住んでいたこともあり、普通に今も住んでいる感覚に陥った。

ただこれからまたあの極寒がやってくると思うと、やっぱりこれから日本に帰ることはうれしくもある。

旅日記もほぼ終わりに近づいてきた。最初は勢いで書いていたが、結構しんどい・・・でも頑張って終わらせます。

 

<10月10日>

朝6時前に起きて、アレキパの街を散歩した。屋台で適当にパンと飲み物を買って食べた。菓子パンのチョコレートのおいしさに感動した。朝から感じる小さな幸せ。

ホステルに8時頃バンが迎えに来てくれて、コルカ渓谷への旅が始まった。

他の乗客は15人くらい。もちろんゲイカップルもいる。前にも言ったが、彼らの存在は今やワールドワイドである。そしてなぜか私以外の全員がスペイン語を話せるらしく、ガイドのおっさんはいちいち私のためだけに英語で説明をしてくれるという状況となった。私もスペイン語を理解できたらと、この旅をしていて最も思った瞬間だ。

乗客の中には家族連れもおり、英語と日本語を話す私に、好奇心旺盛な男の子が何かと話しかけようとしてきたり、ちょっかいを出してくる。かわいい。

そしてフランスから一人旅をしているというジェロムと隣同士で座り、彼は英語もスペイン語も話すということでいろいろ他愛もない話をした。大概旅人と会った際は、最初に、どこから来たのか、どのくらい旅を続けるのか、これからどこへ行くのか、などと当たり障りのない話をする。

バンはアレキパを離れ、4000m級の山々を走り抜けていく。そして、この旅で最も標高の高いポイント4900mにて休憩をした。

さすがに、体が少しふわふわする感じがするし、頭痛もある気がする。早速いつものコカティーを飲んだ。ペルーへ来て一体何杯飲んでいるのだろう。

私はこれから先これよりも高いところへ登ることがあるのだろうかと思う。なさそうな気もする。

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今夜はコルカ渓谷に程近いチバイという村に宿泊する。

夕食はペルーの民族音楽と踊りの見られるレストランにてとった。観光客向けのレストランだったが、他の観光客ともいろいろ話ができて有意義な時間だった。

私は2度目のアレキパのステーキを食べた。牛肉に近い味だが、少し癖があり、そして全く脂肪分がない。

夜は冷え込む。シャワーの水が生ぬるかったため、さっと浴びて毛布に包まってすぐ眠った。ほぼ毎日眠る場所が違っている。

 

<10月 11日>

目が覚めて、顔を上げた瞬間に鼻血が大量に出た。

寝ぼけていたし、急であったため、とっさにTシャツでぬぐってしまい、白いTシャツが悲惨な状況に。

排気ガスの影響で粘膜が弱っていたのか、それとも昨日の4900mが効いたのか分からないが、体というのはやっぱり敏感なのだ。おかげで即効目が覚めた。

気をとりなおして、朝食を。ジェロムはすでに穏やかにコーヒーを飲んでいる。フランス人とコーヒー&ブレッドは似合う。ただ、ある本で読んだが、フランス人とイスラエル人の旅行者は常にワースト・バックパッカーにランキングされるそうだ・・日本人はどうなんだろう。

コンドルが活発に活動するのは午前中であるため、6時過ぎには再び全員でバスに乗り込み、展望場所であるクルス・デル・コンドルへ向かった。

コンドルは大きいものでは両翼を伸ばすと3メートル半もあるそうで、時速140kmのスピードで高度6000mを飛ぶことができるらしい。

クルス・デル・コンドルにはすでに何人もの旅行者が息を詰めてコンドルが現れるのを待っている。

ジェロムと腰を下ろしたまま45分程が経過した後、ふいに誰かが、来た!と声を漏らした。

ふと西の方へ目を向けると、一羽のコンドルが音もなくこちらへ向かってくる。翼を一切動かさず、音も一切たてない。私達の座っている所、わずか10mくらいのところまで彼は近づいてきたように思う。両翼を広げてゆうに2mは超えていたと思う。

飛ぶというより、舞うという表現が正しいのかもしれない。風に乗って舞うその姿は悠然としていて、私達はただ見つめ続けた。『コンドルは飛んでいく』は、こんな姿を見ながら作られたんだ。

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このコンドルを見るというメインイベントが終了した後は、また軽いトレッキングを挟みながら同じ経路をバスは走り、アレキパへ戻ってきたのは夕方5時くらいだったと思う。

ジェロムや他の観光客とサヨナラをして、私はそのままバスターミナルへ。今夜の寝台バスでリマへ戻る。もう1泊くらいアレキパに滞在しておきたかったが、そうした場合リマからの帰国フライトの時間ぎりぎりになってしまい危ない。

寝台バスの出発が午後10時であったため、ひとまず街へ戻り、一人の夕食、そしてインターネットカフェで時間をつぶす。

2週間にも満たない短い旅がもうすぐ終わろうとしている。

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2009年10月23日 (金)

ペルー・センチメンタル・ジャーニー(アレキパ編)

<10月9日>

ホステルをチェックアウトし、私はアレキパ行きの、セザールはコパカバーナ(ボリビア)行きのバスチケットをそれぞれ購入し、港の市場でお昼をとった。

ティティカカ湖へ来てから私は魚ばかり食べている気がする。ペルー料理は味付けがわりとシンプルで食べやすい。

あまり食欲のなかったセザールは、残してしまった料理を食堂近くに座り込んでいる子供に与えていた。彼の当然な行動を、私は偉いと思った。そこに偽善的なものは感じられない。

彼はこれからボリビアを南下し、コロイコの動物保護地区で10日間程滞在して帰国するらしい。大学卒業後はヨーロッパのどこかの大学院に行くけれど、その前に半年~1年はアマゾンかニュージーランドでインターンシップをする予定だと言っていた。

彼のこれからの旅に、将来に、他人事ながら興奮して応援する気持ちを抑えることができない。

出会えて、一緒に旅ができてよかった、そしていつかまたどこかで旅をともにするかもしれないねと笑いあって別れた。彼のこれからの旅が良いものであるよう、バスの窓から見える彼の姿を見ながら想った。

 

そして再び一人に戻った私はペルー第2の都市、アレキパへ向かった。約6時間のバス移動。長距離バスにも本当に慣れたものだと思う。

オリャイタンタンボで出会ったリンダが、「プーノからアレキパへ向かうバスは絶対に昼間にしてね、景色が素晴らしいから!」と薦めてくれたのを、また素直に守り、昼間の移動にしたのだ。

彼女の言うとおり、素晴らしい景色。遥か遠くまで続く山並み、真っ直ぐな道、真っ青な空。

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夕暮れも素晴らしく、地平線にだんだんと太陽が落ちていく。その姿をぼんやりとうっとりと眺めていたのだが・・。

それまで調子よく動いていたバスのスピードが徐々に落ちていき、最終的に完全に止まってしまった。

こんな何もないどこかも分からない道の真ん中で。日はほぼ暮れようとしている。

それでも運転手からは何の説明もなく、乗客も多少ざわつくもののそのままぼんやり席に座り続けている。運転手は車をおりて、なにやらエンジンをいじっているようだ。

私の隣りに座っているおじいちゃんが、「よっしゃ、俺が見てくる」とばかりにスペイン語で言い放ちバスを降り、様子を見てきて私にいろいろ説明をしてくれるのだが・・・スペイン語のため全く分からない。でも推察するに、モーターが壊れたけど、多分大丈夫もう少しで直るよ、といったようなことを言っていると思われた。

完全に日が暮れ真っ暗闇になった頃、何の前触れもなくバスが再び動き始めた。空にはまた美しい星空。乗客はまるでなにもなかったように再び眠ったり話しはじめたりしている。隣のおじいちゃんは時々思い出したようにスペイン語でなにやら話しかけてくれる。まぁ無事動いたからいいか、と許せてしまうような時の流れだ。

アレキパの街は白い火山岩の建物で作られており、他の街とはまた異なる景観を持ち美しい。

到着後すぐにホステルを見つけ、さらに翌日からの1泊2日のコルカ渓谷ツアーへ申し込んだ。

コンドルの飛ぶ姿を見たい、と思ったからだ。

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2009年10月22日 (木)

ペルー・センチメンタル・ジャーニー(ティティカカ湖編)

<10月7日>

朝4時30分にプーノへ到着。

バスの中が寒く、そして中途半端な時間すぎて私はほとんど眠れず。

隣の席ではセザールがずっと爆睡。さすがの若さ発揮。気持ちよく眠りすぎていて私は軽くいらいらした。

ツアーの開始が8時ということだったため時間を持て余し、朝食をとった後は、お互い黙々と読書。私は友人から借りた『篤姫』を、彼はチリでは有名な詩人の詩集を読んでいる。なんでも彼の皮肉で斜に構えた詩が好きらしい。1編を訳してもらったがいまいち理解できなかった・・・。

8時過ぎにガイドが迎えに来てくれて、他の参加者(多分全員で15人くらい)全員でボートに乗り込んだ。

30分ほどで、全てがトトラという植物で作られているウロス島へ上陸。家も、ベッドも、学校も、そして島自体もこのトトラでできている!そしてさらにこのトトラは食べられるのだ(実際食べたけれど、、無味)。なんにでも使えるこのトトラ、素晴らしいが、、ただ燃えるよね。火事が起きたら全てが燃えます。気をつけてほしいと心から願って島を出た。

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ウロス島を去り、ここからさらに3時間ボートで移動し、今夜泊まるアマンタニ島へ向かう。

ボートから眺める景色は、全て青。空の青、湖の青、ところどころに浮かぶ小さな雲、そしてその間には緩やかな山々。標高3800m。富士山の山頂よりも高いところに、こうやって人々は生活をしている。空がとても近い。雲がつかめそうなほどだ。

ボートはとてもゆっくり進む。ふと見ると運転手のおっさんはうとうとしながら運転をしている。大丈夫なんだろうか・・・いや、大丈夫だろう。前を遮るものなど何もない。

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ボートの外へ出て、太陽の光を浴びる。日差しがかつて経験をしたことがないほど厳しい。湖自体が大きな鏡の役割をしている。それでもこの湖を吹く風を直接感じたくて外へ出てしまう。

乗客はそれぞれ日光浴をしながら昼寝をしたり、読書をしたり、相方と話し込んだりしている。私は、足をボートの際に投げ出してうとうとしている。ふと目を開けると、隣ではセザールがまだあの詩集を読み耽っている。聞こえるのは波の音と、エンジンのポンポンという音だけだ。目の前には湖と、空と、山があり、背後には同じく湖と、空と、山がある。

アマンタニ島には電気もガスもなく、当然宿泊施設なんてものはない。そのため旅人は島の住民の家に泊めてもらうことになる。

夕方島へ到着後、それぞれいろんな家庭に引き取られる。私とセザールは一緒に旅をしているため、部屋こそ違えど、ジャネットという女性とその家族が住む家へ一緒にホームステイすることとなった。

ジャネットはまだ21歳だが、アントニオというかわいい2歳の男の子を息子に持つ、逞しいお母さんだ。はにかむ笑顔が若々しくかわいらしい。

夕日を鑑賞するために再びみんなで丘を登る。丘といっても3800メートルの高地からさらに300メートルを登るため、かなり厳しかった。呼吸が苦しい。そして朝晩は気温がぐんと下がるため、体がどんどん冷えてくる。

途中休憩を繰り返しながら、アマンタニ島の頂上へ。沈む夕日を静かに眺める。太陽なんて毎日沈むのに、やっぱり美しい夕日を見るとずっと眺めずにはいられない。島の子供達が編んだ腕飾りをセザールは友人へのお土産だと言っていくつか買っている。1つたったの30円くらいのものだ。そのうちのひとつを私の腕にもつけてくれた。温かい旅のお守り。

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日が沈んでしまった後は、寒さに半分震えながらも空の藍色とオレンジ色に見とれて丘を下った。村の広場に戻ったころには完全な暗さ。

するとどこからともなく音楽が聴こえてくる。ドラムやシンバルや笛の音色と一緒に子供達の掛け声もする。その音は10分、15分すると随分近づいてきて、とうとう広場にやってきた。

どうやら1ヶ月に1度の村祭りの日だったようだ。島中の子供達が集まり、楽器を演奏し、それにあわせて民族衣装を来た子供達が踊る。

光は全くない。唯一の光は、店からところどころ漏れる蝋燭の光と、私達観光客の放つカメラのフラッシュだけである。そして見上げるとそこにはこれまで見たことのない夥しい数の星。

怖いほどの星空の下、暗闇の中で子供達が踊る。カメラのフラッシュで時々浮かびあがる島の人々の姿。隣ではセザールもぼんやりとしている。時間にして1時間程だったはずだけど、それは一瞬にも思えるし、数時間にも思える。音楽が鳴り止んだ時、我に返ったようだった。

ジャネットに促されて彼女の家へ戻る道すがら、私達は懐中電灯なしでは歩くことができなかった。彼女は毎日歩いている道であるため、真っ暗なせまい道をアントニオをおぶってすたすたと歩いていく。ジャネットと、そしてセザール、彼らの後姿を追いかけながら、まだ私はぼんやりしていた。

ジャネットが私達に作ってくれた夕食はとてもおいしかった。イモ類が中心で、全く肉が入っていないという質素なものだったが、冷えた体に温かいスープが有りがたかった。蝋燭の光の下、感謝して食べた。

彼は「母さんはいつも、あなたの一番大切なものを、もっと必要としている人達に分けてあげなさいって言うんだよね、だけどそれはやっぱり難しくてまだ今の自分にはできそうにないんだ。ジャネットとアントニオに自分の靴とかTシャツを置いていって使ってもらおうと思うけど、それで喜んでくれるかな?」と言った。

そして彼は、「ジャネットの笑顔すごいかわいいよね、いいお母さんだよ。ここは電気も何もなくて確かに貧しいところだけれど、僕はこんな暮らしもそれはそれで幸せで、ここへ来れて彼らの生活を見れてほんとに自分も幸せだと思う。」と素直に口に出した。

私は彼が私が今このスープを飲みながら感じていたことをそのまま表現するので少しびっくりした。感情を共有するというのはこういうことを言うのだろう。

セザールは私よりももっと本気のバックパッカーなのでしっかり寝袋も持参している。

あまりにも星が美しいため、子供のようにはしゃいだ2人は寝袋を広げ、その上に何枚も毛布をかけて、星空を眺めることにした。彼はときどき寝袋に入り外で眠るらしいが、私には初めての経験だった。

標高が高いため、見上げることなく、立ったままの姿勢の目の高さから星が見える。

それを寝転んで見上げると、大袈裟ではなく180度全てが星空となる。完璧な暗闇と静けさ。天の川が見える。そこに星が流れていく。

隣にいるセザールの存在を忘れてしまうほど(おそらく彼も私の存在を忘れていたと思う)、自分が夜空の真ん中に浮かんでいるような感覚。私はこれまであんなに美しい星空を見たことがない。

完璧な静けさを破って、遠くの方からケーナという笛の音色が聞こえてきた。おそらく村の子供が吹いているんだろう。セザールはふざけて「どの星がほしい?」など聞いてくる。それほど、手を伸ばせばとれてしまうほど、星が近い。

それでも1時間もすると完全に体が冷えてしまったため、私は眠ることにした。

私はこのアマンタニ島で経験した時間と感情を忘れたくないと心に決めてベッドに入った。

セザールはそのあとも一人で星空を眺めていたらしい。

 

<10月8日>

6時半に起床。良く眠れたが軽い頭痛がする。さすがに高山病かもしれない。

それでも再びジャネットの作ってくれた朝食をよく食べた。

ピカロネスという素朴なドーナツのようなものだったが、セザールも私もとても気に入り、彼は作り方までもジャネットに教わっていた。

サヨナラとアリガトウを言い、島を出発。再び3時間のボートにてタキーレ島へ到着。

この島は織物が有名らしく、島民の身につけている服装も色が美しく、湖の青に映えていた。

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さすがに連日の移動に私もセザールも疲れており、そして2日連続シャワーを浴びていないという状況(二人とも臭いと言い合っていたが・・)のため、少しおとなしい。

タキーレ島で昼食を食べ、再びボートに乗り込み、プーノへ到着、そしてツアーも終了。

クスコで、このツアーを申し込んで本当によかったと思った。ここに成り行きの旅の楽しさがある。

プーノに到着後はまず宿を探して、念願のシャワー。これほど温水の有りがたさを感じられることは少ない。そして今日がセザールと過ごす最後の日となる。

一緒に夕食をし、まずはクスケーニャという地ビールで乾杯。彼はビール党であり、そして若くもあるのでよく飲む。私は1杯だけにしておいた。

その後、バー、ディスコ(懐かしい響き・・・)をはしごして、私もワイン、カクテルとよく飲んだ。不思議とたいして酔わなかった。

もう1度言うが、ここは富士山よりも高い標高の土地。でもここで楽しまなくてどうするということで、よく飲み、笑い、楽しんだ。

街でも村でも楽しめるトラベルパートナーを持てて、私もセザールも幸運だったと思う。

一人旅には慣れているけど、時間や感情を共有できる人がいることは幸せで、これから一人でまた旅を続けることが少し怖くなってしまう。

こうしてプーノの夜は暮れた。

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2009年10月21日 (水)

ペルー・センチメンタル・ジャーニー(クスコ編)

移動の日々で相当疲れていたのか、トロントへ来てから毎日9時間以上眠っている。

今朝はハイパークを一人ぶらぶら歩いた。紅葉が始まっていて色いろいろ。

トロントへ来ると自分が随分リラックスしていると感じる。

今夜は友人と食事の予定だけれど、それまでまた旅日記を書こうと思う。

 

<10月6日>

窓の外で子供達の声が聞こえて目を覚ますと7時。10時間も眠り続けていた。

確かに昨日はほとんど眠りもせず1日歩いていたからなぁとぼんやり思う。

クスコへ来ると高山病にかかる人も多く、ひどい人は頭痛のため眠れなかったり、吐いたり、悪化すると死に至る場合もあるらしい。私は運良く高山病の気配がない。空気が悪いため、相変わらず鼻づまりは続いているが。

コーヒーでも飲もうかとベッドから起き上がると、足元に1枚の紙が落ちている。

拾い上げて読んでみると、

「Hi Kaori, I decided to go back to Cuzco tonight. Would you like to see me tomorrow morning at 10am in front of the main door of La Catedral to see the city or go to Pisac? .......」と続いている。

セザールからの手紙だった。

彼は今夜アグアス村からクスコへ来る予定が、昨日遅くにクスコへ戻っており、私のホステルに寄ってくれたようだった。私はすでに眠っていたため、スタッフの人が気を利かせてセザールに手紙を書かせ、私の部屋のドアのしたから滑り込ませたらしい。

彼とはマチュピチュで登山をしたのみだったが、彼となら少し一緒に旅を続けてもいいと思えた。何度も一人旅をしている間に、旅のリズムが合う合わないというのはすぐに分かるようになってきている。逆に言えば長年一緒にいる親友でもバックパッカーは一緒にできないという子達もいる。

セザールとはその手紙のとおり、10時にカテドラルにて再会し、一緒にクスコの街を歩いた。クスコはオレンジ色の屋根の建物が印象的な古都である。これがペルー第3の都市とは思えない。人々の生活にはなおインカが息づいているようだ。

私は翌日にはティティカカ湖(世界最高地にある湖)のあるプーノへ向かおうと思っていたため、私と同じくプーノを経由してボリビアへ入るセザールとはプーノまで旅を一緒にできる。

プーノまでのバスチケット(途中小さな村々を経由していく観光バス)を予約しようと旅行代理店へ行ったところ、今夜クスコを寝台バスで出発して、その後、ティティカカ湖に浮かぶ島を訪ねながらプーノへ向かう2泊3日(車中1泊)のツアーを薦められた。

島に滞在するのも面白そうだったため、セザールと相談して参加することにした。

はじめ、車、宿、食事、ガイドも全て含めて一人90ドルと言われたため値切ったら、一人60ドルとなった。30ドルの違いは大きいと思うのだが・・・実際の値段がいくらするのか不明。もう少し値切れたかもと後で2人とも後悔した。

午後はクスコ近郊のピサックという村へでかけた。週3日開催される市場が見所らしく、今日はちょうど開催される日であったため、またも乗り合いバンにてむかった。もう2人とも慣れたものだ。

本当に小さな村で、市場も人々も素朴だった。

ペルーでは高山病を防ぐこともできるというコカという葉をいれたお茶(コカティー)をよく飲むのだが、市場をぶらぶらしている際にコカの葉そのものをセザールが買った。

なんでも、この葉っぱをかまずに口に含み、ほっぺの裏においておくことで高山病が柔らぐとのことだった。

市場のおばちゃんからも、「こうするんだよ」といって、大量の葉っぱを口に含むように言われ、そして素直な私は言われるがままに口に含んだ。少し噛んでしまい苦い。セザールも同じ動作で葉っぱを含んでいたが、2人とも微妙な表情で思わず噴出してしまった。30分も経たずにお互い道端に吐き出したのは言うまでもない。

人それぞれ旅の楽しみはあるが、私はなるべく現地の人と同じものを食べて、同じ挨拶をし(話すことはできないまでも)、同じものを見たいと思う。なんちゃってじゃないか、と言われても構わない。それが旅だと思うから。

特にすることもないので、川の流れを見続けながら、野良犬をかわいがりながら、土手でいろいろ話した。セザールは8歳も年下で、確かに若さも残るけれど、将来をしっかり考えて今を楽しんでいる頼もしい若者といった感じだ(この言い方はとても私がおばさん臭いと思う・・・が、仕方ない)。スペイン人である父親の仕事の都合で各地を転々としているようだが、そのせいもあってか異なる環境への順応が早いという印象をうけた。彼からは、私と旅をしているととても楽だ、ベストトラベルパートナーだよ!という褒め言葉(?)をもらった。

クスコに戻り、それぞれのホステルへ荷物を取りに帰り、再び寝台バスへ乗り込むべく集合。

夜10時発にてバスはさらに高地へと向かった。

・・・そういえば、昨日マチュピチュ遺跡へ登った際に虫に刺されたらしく、両足の膝下それぞれ5,6箇所が赤くはれ上がって痒い。そして押すと痣を押されたような痛みがある。

いまだに何に刺されたかは不明だけど、痕は残っている。旅に出ると大概何かに刺されたり、かぶれたりする。仕方ないらしい。

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2009年10月20日 (火)

ペルー・センチメンタル・ジャーニー(マチュピチュ編)

<10月4日>

朝8時にホステルを出発し、アナとともに空港へ。彼女はブラジルへ、私は国内線にてクスコへ飛ぶ。

彼女とハグして別れ、私はクスコへ向かった。わずか1時間ちょっとのフライトである。ただその窓から見える景色は絶景。今後リマ-クスコへ向かう飛行機へ乗る人には是非窓側の席に乗って欲しい。

今日は移動の1日。いっきにマチュピチュ遺跡の近くにある村、アグアス・カリエンテスまで向かう。

クスコ空港到着後はそのままタクシーにてクスコの中心へ。クスコではひとまずなにもせず、そのまま乗り合いバンにてオリャイタンタンボという村へ。この村はクスコから約90km離れており、アグアス・カリエンテスへの列車が発着するところだ。

オリャイタンタンボでは列車の時刻まで5時間ほどあったため、昼食をとり、遺跡にのぼり、村の全景を楽しんだりした。列車の出発前になって雨が降ったが、この雨が私の旅の間に唯一降ったものになった。それだけ乾燥しているのだ。

昼食のため、たまたま入ったカフェにはインドネシア人のリンダという女性が働いていた。彼女は英語、スペイン語ともに堪能で、発展途上国での教育に対する調査研究をしながら現在は南米を旅しており、今は数ヶ月のみ、このオリャイタンタンボのカフェでバイトをしているとのことだった。パワフルという言葉がそのまま当てはまる素敵な女性だ。すっぴん、短く切りそろえた髪の毛に笑顔が美しい。

彼女が「ペルー一、いや南米一うまいよ、ここのバナナパンケーキは!私なんて、ここに来てから1週間毎日食べ続けたのよ!」と鼻息荒く薦めるため、それに素直に従ってみた。南米一かどうかは分からなかったが、確かにふわふわで甘すぎくなくおいしいパンケーキだった。リンダ、ありがとう。

午後7時の列車に乗り込むため、30分くらい前から乗車を並んで待った。

街灯もままならない路地に屋台がずらっと並んでいる。民族衣装を着たおばちゃん達のゆでるトウモロコシ(1粒が日本の5倍ほどもある大きさ!)の匂いがたまらない。

隅に座り込みそれをぼんやり眺める私の隣りにはペルー人夫婦が腰掛けてきた。スペイン語は全く分からないと言っているのに、それでもひたすら何かとスペイン語で話しかけてくる。あげくのはてにはその夫婦の知り合いのおっさん達にまで握手を求められる。

列車に乗車する列がこれであっているか確かめるために、私の前に並んでいた男性に声をかけた。「この列は7時発のマチュピチュ行きですよね?」彼は、「そうです。」と英語で簡単に答えてくれた。これがのちに数日間旅を共にすることになったセザールとの出会いだった。

列車は定刻に出発し、約2時間をかけて、アグアス・カリエンテスへ。向かいの席にはゲイカップルが。彼らの存在はもうどの国にいても認めざるを得ない。

到着すると再び多くの客引き。もちろん宿なんて予約していない私は目があったホステル勧誘のおばちゃんに素直についていき、部屋を見せてもらうことにした。

そしてその途中、セザールから一人旅をしているのかと声をかけられた。彼は大学の卒業式を間近に控えたベネズエラの学生で、約1ヶ月一人旅をしているとのことだった。

22歳の彼は私にとって妹以上に歳が離れており、それでいてシャイで笑顔が人懐っこく好感の持てる弟という感じだった。彼も宿の予約をしていないとのことだったので、私と同じホステルへ結局泊まることになった。

とりあえず空腹だったため、チェックイン後にひとりで村をぶらぶら。そして入ったのは中華料理屋さん。マチュピチュで中華料理って・・・と思うかもしれないが、ここで食べた中華スープは私がこれまで食べてきたどの中華スープよりも美味かった・・。恐るべし、ペルー人の作る中華料理。

宿に戻ってみるとセザールが「明日マチュピチュまで登山しない?」と言ってきた。

マチュピチュ遺跡を見るためには、通常はこのアグアスという村からバスで向かう。そしてさらにワイナピチュという山へ登ることでマチュピチュ遺跡を眼下に見ることができるのだが、この入山は日に400人という制限があるため、ワイナピチュへ行きたい人は早朝にマチュピチュへ到着しなければいけない。

それを彼はアグアスからずっと歩いてワイナピチュまで行くという。

もちろんバスでマチュピチュ遺跡まで向かう予定だった私なのだか、彼が歩いて登ることに軽く対抗心を感じたのか、挑戦心に火をつけられたのか、結局翌日一緒に徒歩で遺跡まで向かうことを決意した。

アグアス村の標高は約2000m、高山病は全くないが、空気の薄さは感じる。

移動に疲れ、そして明日の早起きに備え11時には眠った。

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<10月5日>

3時起床。

人間、気合いさえあれば起きられるものだ。

前日に宿のおばちゃんに作ってもらったサンドイッチを持って、3時45分には宿を出発。

もちろん真っ暗である。

山道は街灯なんてものはなく、小さな懐中電灯を頼りに、2人で山を登っていく。満天の星だが、それを見ている余裕もない。

ただひたすら幅1mもない山道やら階段を400mのぼっていくのだ。普段でも厳しい山道が空気の薄さも手伝って、10分ほど歩くたびに立ち止まらなければ呼吸が苦しくて前へ進めない。若いセザールもさすがに苦しそうだった。

ふと、私はなぜこの弟みたいな子と一緒に、懐中電灯の光のみの中険しい山道を登っているのだろうと不思議にも思ったが、そんな気持ちはすぐに掻き消え、ただひたすらマチュピチュを目指して登り続けた。

途中息が切れるとお互いにその辺に座り込んでぼんやりし、再び励ましあって歩き始めた。

まわりが少しずつ明るくなってきて、前後に私達と同じように物好きな旅人が見えるようになって来る頃、マチュピチュ遺跡へ到着した。約2時間の登山だった。当然すでに足はがくがくである。

6時に遺跡の門が開き、早速入場。数分歩くと、前触れもなく急にマチュピチュ遺跡が目の前にひらける。その瞬間の息を呑んだ光景は私にとって生涯忘れがたい。自分がちっぽけすぎるのだ。

30分もすると朝日が昇ってきた。

2000年も前に建造されたといわれるこの空中都市に柔らかい光があたり、そしてそこではのんびりとリャマ達が草を食んでいる。ピースフルという言葉が最も当てはまる瞬間だったと思う。私は思い切り深呼吸を繰り返した。

遺跡のガイドツアーに参加するセザールとは、翌日の夜、クスコという街で夕食でもしようと言って別れた。

その後、無事に制限人数400人の中に入ることができ、ワイナピチュへと登山。これは45分程で登頂と短かったが、かなり急で道幅も狭く、肩幅くらいの道の片側は木々、片側は崖という状況であり、登りというよりも、降りるときの方が数倍怖かった。高所恐怖症の人には絶対にオススメできない。ただこの険しい道を登るだけの価値は十分あるほど、ワイナピチュからの眺めは素晴らしい。はるか700m下を流れる河を、マチュピチュ遺跡を見下ろし、時間を忘れる。

タイのスコータイ遺跡を見たときもそうだったのだけど、今の私達の時間と、そしてこれらの遺跡が作られた頃の時間の隔たりはすごく大きくて、その隔たりに対面できた感動と奇跡と怖さを感じられずにはいられない。その場に居合わせた人にしか表現できない空間がそこには存在すると思う。あれは、ひとつの感謝に似た気持ちなのかもしれない。

遺跡の壮大さに酔って帰ってきたものの体はくたくた。

昼食をアグアス村でとりのんびりした後は、再び列車にてオリャイタンタンボへ帰った。

そして同じルートで乗り合いバンにてクスコへ。

乗り合いバンはありえないほど人を詰め込む。夫婦で乗ってきたりすると、おっさんの上におばちゃんが座ったりしている。ぎりぎりまで乗客を詰め込んだバンは、信号もなにもない道を転がるように疾走する。相変わらずカーラジオからはラテン音楽が流れている。私はなぜかふと一人にやけてしまった。

クスコは標高3400m。坂道を歩いたら息が切れて仕方がない。

予約していた宿を探しチェックインをして、近くの食堂で夕食をとったら、無料でグラスワインがついてきた。半分飲んだところで、動悸が半端なく断念。高地ではアルコールもすごい勢いで回るらしい。

9時過ぎにベッドに入った瞬間、引きずり込まれるようにして眠りに落ちた。

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ペルー・センチメンタル・ジャーニー(リマ編)

今朝4時に友人が日本へ帰っていった。

彼女は私の帰国にあわせて、日本からボストン、トロントへ旅行に来てくれたのだ。

完全に寝ぼけたままサヨナラとアリガトウを言って別れたけど、また日本での再会が約束されていることもあり、いまいち実感がなく、そのまま再びベッドに横になり、起きたら11時を過ぎていた。

それでも一旦起きた際に空腹を感じていたのか、寝ぼけたままベーグルを食べていて、そのせいでよだれの気持ち悪さで目覚めるということになった。自分の欲求に対する従順さに改めて感心する。

今日は特に予定もないので、散歩したり、こうやってブログを更新して過ごそうかと思っている。

時間もあるしせっかくなので、ぺルーの旅行記を書こうかと思う。あくまでも自分の記録のために記すので稚拙な文章は勘弁してください。

 

<10月2日>

3日前に仕事が終了し、引越し、送別会などでばたばたしていたため、いまいちペルー旅の準備が整わず、気持ちも旅モードになる前に空港へ。

搭乗しても、これから久々の一人旅、そして初の南米大陸への旅が始まる実感は湧かなかった。

昼過ぎにボストン発のデルタ空港にてペルーへ。アトランタ経由。なんの問題もなく乗り継ぎ、そしてリマ(ペルーの首都)へは深夜12:00近くの到着。

私はいつも一人旅の時は荷物を最小限にしている。季節が冬であろうが、期間が1ヶ月以上であろうが、1週間分の下着さえあれば問題ない。無人島に行くわけでもないし、必要であれば現地で買えばいい。

荷物が重くて、そして冬の寒さがあって、さらに暗くなって一人で宿探しなどをしていると、本当に寂しくなってしまうので、せめて身軽でいたいということからだ。

そのバックパックも使い始めて10年が経ってしまった。ブランド物でもなく、ただのシンプルなバックパックである。よく見ると、2,3箇所破れている。この旅が終わったらお礼を言ってサヨナラしようと心に決めた。

リマ空港へ着くと、やはり思ったとおりたくさんの客引きが待っていた。その人ごみを無視して、すぐにタクシーへ乗り込む。リマの到着は遅いため、あらかじめホステルを予約しておいてよかった。

真夜中、タクシーは猛スピードでホステルまで飛ばしている。海岸沿いを走る車のカーラジオからはラテン音楽が流れ続けている。そのスペイン語の大好きな響きをぼんやりと聴きながら、南米へ、ペルーへ来たことを初めて実感した。ここでは何が私を待っているのだろう。

ホステルはリマのミラ・フローレンスという新市街の中心にあり、便利なロケーションだったが、私の部屋の上がバーになっているため、深夜でも煩い・・。ビリヤードの玉が弾ける音が耳を離れず寝返りを繰り返しながら、ペルー初夜は眠りに落ちた。

 

<10月3日>

いまいち深くは眠れずぼんやりと目覚め、上のバーで軽い朝食をとった。

すると明らかに日本人と思われる、若くて化粧の濃い女の子から「日本人ですか!?うれしー!」と声をかけられた。

久々に日本語を話したという彼女(マリコちゃん)は、JICAでの2年間のガテマラボランティアを終了し、1年間に渡る南米一人旅を始めたばかりとのことだった。

彼女の若さと積極さに圧倒されて、寝ぼけていた私はかなり挙動不審な人だったに違いない。

彼女と一緒に朝食をとり、その後は一人でリマをぶらぶら。はっきりいってリマはたいして面白くない。単なる都市という感じだ。マクドナルドもあればスターバックスもある、きれいな海岸があれば、歴史あるカテドラルも建っている。

ただ、スモッグがひどい。車の排気ガスが全く計算されていないらしく、私は昨日リマについた瞬間から鼻がつまり、喉が痛痒い。

夕方歩きつかれてホステルへ戻ると、同部屋にブラジル人、アナがいた。彼女はサンパウロで薬剤師をしているが、3週間の休みを使ってペルーを一人旅しているそうだ。こうやって日本人以外の旅行者に会うと、仕事をしながらも長い休みがとれる環境に羨ましさを感じてやまない。日本で社会人をしている限り、1週間以上の休みをとることはほぼ不可能だろう。

彼女は今夜がペルーで過ごす最後の日となり、明日のフライトで帰国するとのことだったので、一緒に夕食をすることにした。

セビッチェ(魚介類をレモン汁やスパイスで和えたもの)は美味。リマなど海岸沿いで食べるとよいらしい。日本人の口にあうと思った。そしてお酒はピスコサワー。これはペルーのカクテルらしい。口当たりは良いがかなりきつく、1杯しか飲んでいないのに軽く酔っ払った。

ほろ酔いのまま2人でホステルへ戻り、マリコちゃんも合流してホステルのバーで話し込む。昨日の到着時には煩くていらいらしたバーも実際自分が滞在してみると、良い溜まり場になるのだ。

明日は、アナ、私ともに午前便へ乗るため空港へ行かなければいけない。マリコちゃん、アナと連絡先を交換して眠った。

女性の一人旅は案外多い。そして出会う誰もが強い。それは体力的だとか表面的なものではなくて、なんだか上手く言えないが共感できる共通した強かさを持っていると思う。

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2009年10月 6日 (火)

FROM PERU

DEAR WORLD,

Why you are so beautiful and always make me amazed???

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2008年5月19日 (月)

南ドイツ(終)

帰りのフライトは約45分程遅れたものの(毎度のこと?)無事離陸。

機内では、、、やっぱりベイビーが泣いている。

そしてフルーツミールはつまらなさすぎる。

ほんとにフルーツしかないし、、みんなが朝食サンドウィッチ食べてるのに、私はバナナとリンゴ丸ごとだし。

でも幸い隣に座ったおばあちゃんはかわいらしい。

途中手元が震えてジュースを多少こぼされたけど。

気にしない、気にしない。

 

素敵な旅だった。

こんな旅ができて私はなんて幸せ者なんだと、何度も思った。

所詮、私にとっての幸せなんて、何気ないけど楽しい会話と、おいしい食事、お酒と、素敵と思える人々と、音楽と、緑に囲まれてれば、満たされてるといっていい。

だけど、この幸せを感じられる瞬間は意外と少ない。

幸せを感じられるレベルを私はいつも低くしていたい。

そのほうが楽しい人生だと思う。

   

そして1週間だけだけれど、住み慣れたトロントを離れてよかった。

おかげでトロントも恋しくなった。

ドイツに入って2,3日はひたすらトロントの混沌さというか適当さと、南ドイツの穏やかさというか上品さを比べてしまっていたけれど、

旅の後半にそのトロントの適当さが恋しくなっている自分に気づいた。

間違いなくトロントは私にとって第2の故郷になっている。

特に有名な観光地でもなく、とびきり美しい街並みもなく、人々はあらゆる言語で話し、地下鉄は汚いし、店員があり得ないほど無愛想なこともしばしば。

だけど、恋しくなるんだなぁ。

トロントに戻ったら、友人達に「なんかすごくリラックスして新鮮に見えるよ、いいね」と言われた。

顔に出ている・・・。

戻りたい場所には、やっぱり戻りたくなるほど会いたい人たちがいる。

思えばこのトロントにいるのもあと3ヶ月くらいなんだなぁ。

日本へ帰国したらこの街を苦しくなるほど恋しくなるんだろう。

日本に帰りたいと思うのに、日本のことを胸が苦しくなるほど恋しく思うことは少ない。

なぜなら、そこは帰る場所だから。

大きな家族のようなものだ。

帰る場所は、待っていてくれるという安心感があるから、恋焦がれることはない。

だけど、いつだって帰る場所は1つだけ。

"There is nowhere like a home"

旅は生涯続けていきたい。

新しい場所を知ることで、自分の故郷の素敵さも感じられるから。

トロントも私にとって長い旅の一つ。

短い南ドイツの旅は、私に、これからトロントで過ごす3ヶ月分のパワーを与えてくれた気がする。

ダンケ!!

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(名古屋人なら迷わずカメラを向けてしまうでしょう、ミュンヘン版ナナちゃん!)

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