音楽と映画と詩集。
東京事変、解散しちゃったなぁ。
ライヴに行きたいとずっと思いつつ一度も行けなかった。
彼女の作る詞はなんだか難解なものが多いけれど、何度も繰り返し聴いていた「透明人間」は完全に自分に沁み込んでしまっているし、「スーパースター」や「私生活」も彼女だから響かせることのできる美しさのある曲で、解散が決まった頃から再び聴き続けていた。
ここ最近全くライヴというものから遠ざかってしまっているので、聴覚が欲求不満状態。
満たさなければ、欲求。
この間久々に映画館へ行った。
昔は仕事帰りにぷらっと一人映画館へ寄って帰宅、とかいうパターンもあったけれど、小規模映画館が閉鎖したり、DVDの出現だったり、なによりも映画料金が高いということで、最近はめっぽう映画館からは遠のき気味。
『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』
観てきました。
リトル・ダンサーのダルドリー監督だし、間違いない気がしたので。
9.11の事件を背景とした映画だけれど、もうすぐ1年となる東日本大震災とも重なって、(もちろん一方はテロで、一方は自然災害という全く異なる要因だけれど)個人の力ではなんともできない大きな力で引き離された大事な人達との絆をずっと感じる、辛いけど向き合わなければいけない、そんな映画。
子供の直向さと傷つきやすさが直に伝わってきて、私は母親に完全に感情移入。マスカラ完全に取れました。
物語の中で、主人公の少年と父親が、矛盾語遊びというものをする場面があって、そういう一場面一場面が面白い。
矛盾語というのは、例えば、
「小さな巨人」とか、「危険な安全装置」とか、「無口なクレーマー」とか。
帰り道、相方とも考えてみたけれど、これがなかなか出てこない。難しい。
でも、その後ふと急に思い出したフレーズが。
”ほがらかに笑っていたあなたは 幻を過信して 高嶺の花に成り下がる”
矛盾語ではないのかもしれないけれど。
10代の頃、それこそ擦り切れるほど読んでいた詩集の中にあった一節。
当時、これを読んだとき、ものすごいことを言うなぁと。強烈な印象を受けた。
高嶺の花っていうのは、憧れるあまり近づけない、みたいな、まぁ、良い意味であるような気がするけれど、一方で、成り下がるという言葉は、栄えていたものが廃れるというようなネガティブな意味合いがあって。ある意味矛盾しているんではないかと思える文章。
高嶺の花でいつづけて欲しい人もいれば、なんとか、野花のようにいつでも触れ合える近さでいて欲しい人もいる。
とにかくどんな形であれそばにいて欲しいと思っていた人に対しては、高嶺の花になってしまった今を、「成り下がった」と表現したとしても間違いではないんだろう。
印象的な言葉や文章はどれだけ時間が経ってもふと思い出されてしまうので油断ができず、自分でも時々驚く。
そういえば、映画館帰りに、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」ってなんのことだろね?と相方に聞いたら、「自分のことじゃない?」との答え。
これが即答で笑えた。
確かに時々距離感間違えてありえないほど近くにいることはあるけれど、ものすごくうるさいことはないはず。断じてないはず。
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