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2011年6月 9日 (木)

やっぱり『となりのトトロ』は名作だ。

紫蘇とバジルを育て始めた。

まだ梅雨入りしたばかりで先走ってはいるけれど、、

夏はやっぱり素麺でしょう。そして紫蘇はマストでしょう。

バジルもついでに。なんだかお洒落だし。パスタとかに入れればいいのかな。

少しずつ伸び始めた芽を見ていたら、「となりのトトロ」の一場面を思い出した。

サツキとメイが力を込めて腕を伸ばすと、芽がぐんぐん伸びていく。あの場面が大好きだ。

夢だけど、夢じゃなかった!って翌日笑いあう二人。

子供の頃、母親が素麺を作るときはいつも庭に生えている紫蘇をとってきた。

ついでにニワトリ小屋から卵もとってきたり。

今思えば、そして洒落て言えばオーガニックな生活だったんだろう。

部屋の外にも中にも生物のある生活が良い。

四季を感じられる生活。

生きている感じが伝わる部屋。

果物が少しずつ熟してくる様子、緑が陽光を浴びて色濃くなる様子。

そんなものを感じながら住んでいたい。

  

沢木耕太郎の『旅する力』を読んだ。

多くの人がそうであるように、私も『深夜特急』から彼の作品を知るようになった。

あれを読んだのはもうどのくらい前のことになるのだろうか。

旅が開始したばかりの香港のあたりや、あとはもちろんインド編が最も印象深かったように思う。

彼は乗り合いバスでデリーからロンドンへと一人移動していく。

『旅する力』の冒頭に、「旅とは、途上にあること」と、記されている。

ざっくばらんな言い方からも知れないけれど、確かに、旅とは人生のようなものだと言うのと同じだ。

私もこれまでに様々な旅をしてきたが、いつも思うのは、旅とは何かの真っ只中にいて、変化を繰り返して、そしていかに自分ひとりじゃなにもできないかを知らされるし、知ることができるものだとも思う。

ひとりバスに乗り、窓から外の風景を見ていると、さまざまな思いが脈絡なく浮かんでは消えていく。そのひとつの思いに深く入っていくと、やがて外の風景が鏡になり、自分自身を眺めているような気分になってくる。

窓の外を見たり、何か他のものを見るとき、自分が何を見ているか。自分自身をみているんだ。美しいとか、ロマンチックだとか、印象的とかに見えるのは、自分自身の中に美しさや、ロマンスや、感激があるときにかぎるのだ。

ひとり旅の道連れは自分自身である。周囲に広がる美しい風景に感動してもその思いを語り合う相手がいない。それは寂しいことには違いないが、吐き出されない思いは深く沈潜し、忘れがたいものになっていく。

私が旅をするときに、よく感じていたことが同じように本の中にも書かれていた。

タイのスコータイ遺跡へトゥクトゥクに乗って走り抜けた真っ直ぐな道。そして静かに広がる遺跡と対峙するときに感じた優しさや厳粛さ。

モロッコのマラケシュのスークをぐるぐると歩き回る。アラビア語、様々な模様の絨毯、しつこい物売り達、アフリカンミュージック、、そんな混沌の中にいるときに感じた興奮。

ペルーのチチカカ湖で見た、目の高さに広がる星空の眩しい美しさと、ケーナの響きの温かさ。

与論島を真っ赤に日焼けしながら自転車で一周。おばちゃんが笑顔でくれたシークヮーサーの甘酸っぱさと、大阪へのフェリーから見えた夕日の濃いオレンジ。太陽が海に完全に沈むまで見送った少しの寂しさと充実感。

それぞれの旅から何年も経った今でも、そのとき感じた気持ちや目に入ったものを覚えていられるのは、きっとそのときの自分自身の中に美しさや温かさや感動があったからなんだと思える。

元同僚が今タイを皮切りにラオス、カンボジアへと旅を始めている。奥さんと一緒に2年ほど旅をしてから母国のカナダへ帰るようだ。彼らから届いたポストカードの内容から旅を楽しんでいる様子が伝わってきて私まで嬉しくなってしまった。

旅が途上であることを意味して、それが人生にも言えるのなら、

今この場所でこうしてブログを書いている時だって、私は十分途上中であり旅をしているのだと思う。

どんな小さなことにも感動できる。それは自分自身の中に感動があるから。

小さな芽を出し始めた紫蘇を毎朝眺めて、小さく喜べる初々しさを、ずっと自分自身の中に持っていたい。子供なのかもしれない。でもやっぱり感じる気持ちに鈍感になってしまうのは少し寂しいと思うから。

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