夢の中で、creamのwhite roomがやたら流れていた気がする。軽くロックな目覚め。
60~70年代を背景にした物語を読んだからだろうか。
ある意味ロックかもしれないが、最近私生活では焼肉率が高い。しかもホルモン中心。
牛ホルモンとビールの組み合わせって間違いなく体に悪い気がするんだけど、美味しいんだから仕方ない。肉食傾向にあるなぁ。。
仕事帰りにこうやって焼肉にビールでお疲れ様、という流れも昔と変わりなく。
今、自分が携わっているのは人事という仕事だけれど、私の中で描いていた人事っぽい人間はいないようで、強気でフットワークが軽く、受身という感じが全くしない。
同僚と飲みにいくとやっぱり仕事の話になるし、当然愚痴も出るのだけれど、それ以上に、「変えてきたいよねー」とか、「こうしたらいいんじゃない?」とか、「どんなふうに働いていきたいわけ?」とか、「どうなっていたいの?」とか、軽く酔った勢いもあって熱く、そして正直に語り合ったりもしている。
そういう前向きな流れって必要だなぁと思う。だってどうせなら楽しく働きたいし、充実感も味わいたいでしょう。
焼肉くさくなって帰る道すがら、随分正直に言い合って、軽く熱く語ってしまったなぁと一人照れたりする。新人でまだ全く仕事できないのにね。
この間、友人と一緒に健康診断を受けた。
一人で受けるより数倍楽しい。社会見学なみに病院内をひやかして回った。子供ですね。
でも結果はやっぱり三十路女性そのもので、数字は正直だと実感。
口に出して追い込まないとできないので、ここで体力づくりを宣言します。
7月までに、体重4キロ減、体脂肪も4%減を目指します。とくに体脂肪やばいです。間違いなく牛ホルモンの影響ではないかと思われる。
年齢を経るに従って、心技体のうち、体は当然衰えていく。それは抗えない自然の流れ。受け入れつつも、軽く抵抗はしていこう。そして心技だけでも、もう少し充実させられたらいいのだけれど。
久々に、宮沢賢治の作品集を読み返した。
本棚から出てきたので手にしたのだけれど、これを読んだのはいつだったんだろう。随分昔なんだろう。
「銀河鉄道の夜」、「セロ弾きのゴーシュ」、「よだかの星」、「注文の多い料理店」・・・。
それこそ児童書といったもので、文字も大きく、漢字には全て読み仮名がついている。
小学校低学年から読めるんじゃないかなぁ。
彼の、空とか光とか風とかそういった自然を表す言葉には独特の温かさがある。
「注文の多い料理店」の序文にこんなことが書かれている。
わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃色のうつくしい朝の日光をのむことができます。またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
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わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
子供時代にこうして、すきとおったたべものをたくさん食べられた子は、どんな大人になるんだろうなぁと思う。
どの話を読んでも、一貫しているのが、主人公達の弱さや醜さや愚直さだったりする。詩にもある、デクノボー的性格をもつ人達。こういう人達が関わっていく社会は冷たかったり、ときに温かかったりする。
彼の主人公達の描き方は、同情するでもなく、保護するのでもなく、普通で温かい。
彼のいうデクノボーっていうのは、圧倒的な正直さを持って生きてる人なんじゃないのかなぁと思う。そうやって生きていくのは、とても不器用な気もするけれど、それでいて清清しい。
だからといって、社会で生きていく中で、正直さを貫くってしんどかったりもする。そのバランスは難しい。誰だって自分の中に、デクノボー性と、その逆の利発性みたいなものを持ってるだろうから。
私は「すきとおったほんとうのたべもの」を、まだ見つけていきたいなぁと思う。自分の透明性は、いくつになっても変わらずに持っていたい。
それは、ホルモンを食べながら語るおっさん性と、新しいものにまだまだはしゃげる幼稚性と、そして体脂肪を気にしはじめた三十路性もすべて併せ持った上で、ひとつの透明な女性でいたいという希望からくるのです。
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