2018年5月18日 (金)

フライデーナイト

2年前につけた梅酒をちびちび飲みながらのフライデーナイト。

子供達の寝かせつけをするはずが、自分が真っ先に眠くなってしまい、
彼らと眠る前の甘いひと時を過ごすどころか、半分眠った頭で「早く寝なさーい!」と言い放って先に寝てしまった不良母です。
はっと起きたらまだ8時半。夫がまだまだ帰宅せず、娘の授乳までも時間がある。
軽く1杯時間です(やっぱり不良母)。
先日、森道市場という野外フェスへ3年ぶりに行ってまいりました。
名前の通り、音楽だけではなく、おっしゃれーで素敵なお店(食べ物や雑貨メイン)が多く出店していて、家族連れも多く見かけるイベントです。
大好きなアーティストが多数参加。ハナレグミ、bird、salyu、くるり、、、自分が学生時代、独身時代に何度も聴いていた曲を生で聴くと、気持ちだけはグーンとその頃に戻ってしまって、曲の直後に現実に戻るのに多少時間がかかるという状況。小脇にはちびっこがいますから。
そして今まさにまたハナレグミを聴きながらブログを更新しているのです。
この人のつくる別れの曲は情景が思い浮かびすぎて感情移入が激しい。
別れというのは、恋人だけではなく、家族、友人、にも当てはまるのだけれど。
春は別れの時期と言うけれど、そんな別れを随分経験していないような。
花粉症の辛さのみですぎた春です。そして本日は梅雨もぶっ飛ばしたような真夏並みの暑さ。
久々にセンチメンタルな気分になってみたいと思った春。それは欲張りでしょうか。
salyuが最後の曲にto Uを歌ってくれて、実はその時雨がすごくて私たちは雨合羽を着てるにも関わらず体の末端はじっとり濡れてしまっていたのだけれど、もうイントロ流れた瞬間にそんな自分の姿(ギリ30代女の雨合羽姿)なんて忘れて、気持ちは10年前のトロントに戻っていました。そしてValon-1の時にはそれよりも昔のスコータイ(タイ北部)へ。音楽と記憶というのは嫌になるぐらいリンクしていて、どれだけ時間が経っていようと一瞬でその記憶を引っ張り出してきてしまう。そんな記憶、日々の生活の中では完全に忘れ去っているようなものだったりするのだけれど。
うん、ブログ書いている間に少しだけセンチメンタルな気分になれました。
文章に残すって大事。

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2016年4月13日 (水)

今この時のありがたさ。

ここ数日気温がまた下がって肌寒い。

今日は朝から雨が降ったり止んだり。
それでも楽にならないヒノキ花粉。
花粉症、今年は近年稀にみる症状のひどさで、
1日に100回ほどくしゃみが出た日なんて、自分の体内に
どれだけの花粉が溜まっているのかと想像して鳥肌&悪寒。
 
息子が幼稚園に通い始め、今週は半日で保育が終わってしまうので
仕事は休ませてもらっている。保育園に通っていたから幼稚園は余裕でしょうと
いう考えは大変甘く、びびり&超慎重派の息子は当然登園断固拒否!
まず制服を拒否。まぁ動きづらいよねー。毎朝なんとかなだめながらブラウスに袖を
通させていたのだが、ブラウスの隅にちっちゃな新幹線のアップリケをつけたら
案外すんなりと着てくれた。こういうとこはザ・単純。
だれでも新しい環境は緊張するもの。私も苦手だし。
息子よ、なんとか乗り越えてね。
 
この間、うちに友人たちが子連れで来た。 話題はだいたい子供&子育てのことに
集中する。うち一人の友人の子供はまだ小さく、私は一人しか産んでいないくせに
先輩ヅラしてアドバイスしてみたり。ただ、びっくりすることにすでに結構忘れていたりする。断乳のことや、離乳食のことや、言葉のこと。その時その時は全て初めてで
自分も手探り状態。一つ成長したら、次の課題。振り返って噛みしめるなんてことなかなかできず今に至る。
 
子育てしていると、たまーに、独身時代が恋しくなることがある。
独身の友人が羨ましくなることも多々。
あー、最後にみた映画はなんだろう。
誰にも邪魔されずに眠りたいだけ眠っていたのはいつだっけ。
夕飯の準備なんて考えず好きなだけ残業してたんだよな。
ぶらぶらと海外に一人旅していたよな。
終電乗り過ごしたって、なんとかなってたし。
 
ただ、最近思ったのは、今、この子供中心の生活の方が
私の人生の中では短い期間なんじゃない?ということ。
人生80年という。
その中で、あの小さな手が私にまとわりついてくるのはどれだけ一瞬なことなんだろうと。お母さんと一緒がいい!となりふり構わずついてくる息子が、きっと数年もすれば私がついて行きたくてもついてくるなと言われるのだ。
もう出産した瞬間からどんどん子供は親離れをしているんだな。妊娠中の
一体感は産み落とした瞬間以降、離れていくばかりで戻ってくることはない。
子供の成長は心底誇らしいけど、一方で感じる寂しさ。
 
そして、有無を言わさず、10年20年後には、また好きなだけ映画だって見れるし、
一人旅にも行けるようになるだろう。朝だってたたき起こされることもなくきっと好きなだけ寝られるようになるんだ。
 
そう思うと、なんて今の一瞬一瞬が有難いんだと思える。もちろん疲れや苛立ちで
逃げ出したくなることなんてしょっちゅうだけど。
「有難う」の反対語は「あたりまえ」というらしい。あたりまえだって繰り返す毎日が
有難いことなんだな。
 
花粉症はほんっとうに辛すぎるんだけど、幼稚園の行き帰りに息子と散歩をしていると
あらゆるところに春があって、いちいち和む。その春をひとつひとつ見つけて報告してくれる私の小さい人。
てんとう虫が葉っぱの上を進んでいる様子をまばたきせず見つめている。
そのてんとう虫が今日の雨でどこに行ったかを心配して聞いてくる。
摘んだつくしを大切に握りしめているいつも小さく湿った手のひらの匂いと感触。
庭のざくろの木が赤く芽吹いた様子を報告してくれる少し自慢げな声。
 
忘れたくないなぁ。全力で覚えていたいなぁ。
本人はきっと忘れてしまうけどね。
私が覚えていればそれでいいじゃないか。

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2016年4月11日 (月)

スワン。

随分更新してなかったけど、
辞めるも始めるも元から自分次第なので、
自分ペースでまたふらりとブログを始めてみようかと。

なんとなく思ったり感じたりしたこと、日々繰り返しているようなできごと。

それをわざわざ文章に残したいと思うのは、やっぱり自分の中にある「知ってもらいたい」っていう気持ちがそうさせるのだと思う。

前回の投稿を見ると、なんと2年以上前!仕事で短いメールを打つこと、あとは毎日つけてる短い日記でしか文章を書いていなかったのか・・・。なんというブランク。長い文章を書ける気がしない。

ブログを更新していなかった2年は何をしていたのか。たいしたニュースはない。息子は3歳になり、新居へ引っ越しをし、育児休暇から復帰した職場ではちょうど2年が経った。ほらね、1文で終了してしまった。

私は気づくと30代も後半へ突入し、昨日息子が携帯で撮った私のアップ写真では目尻の皺が目立っていた。速攻削除したけれど、これが現実。

この年齢。随分大人だなぁ。大人というか、少女だった頃の私が想像出来る未来の自分はせいぜい20代までで、30代後半の自分がどうなっているかなんて考えたことはなかった。

このブログ更新をしていなかった期間、何をしていたのか。仕事、家事、育児。それがほぼ1日の時間の9割を占める。残り1割ぐらいだろうか、自分の自由な時間。自由時間と言ったって、通勤電車の中で読書するような、息子を保育園に迎えに行く車中で好きな音楽を聞くような、息子が眠り、夫が帰宅するまでの短時間に缶ビールを開けながらネットサーフィンするような。そんなものだ。

今だってその生活に変化はない。今日は息子が昼寝をせず遊びまわっていたので早く眠り、通常1割しかない自分の時間が2割ほどに増えただけ。ただそれがものすごく特別に感じる。

今年が始まってすでに3ヶ月以上が経過してしまった。例年正月にその年の目標を立てているのだが、ざっくり言うと、今年の目標は「スワン」。あんなに優雅に泳いでいる白鳥は、水面下では必死に足を動かしている。泳ぎ続けている。私だって毎日とにかく動いている。楽しいことも、しんどいことも、いらつくことも、泣きだしそうなこともある。ただ、そんなことひっくるめて、優雅〜な感じ。目尻の皺なんて気にしない(いや、気にするけど、それを受け入れるのだ)。

逆に言えば、クールに冷静に見えても、実は熱いのよ、必死で頑張っているのよ。という感じ。

とりあえず、週一で近所のスイミングプールで泳ぎ始めた。ただの平泳ぎだけれど、気分はスワン。

こんな感じでまたブログ再開しようかな。くだらないことも書いてしまおう。くだらないの中に日々の笑いがあるものだから。

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2014年1月21日 (火)

香りのよい健康を

詩人、吉野弘さんが亡くなりましたね。
多感な時期に読んだりした詩のいくつかを
改めて読んでみると、いまだからもっと共感できる言葉、
考えさせられる表現があります。
「菜々子に」もその一つ。
母親になってまだ浅い自分ながら、菜々子を息子の名前にかえて
共感できると思いました。
今まさに風邪をひいて辛そうな息子を寝させつけたところ。
寝顔を見ていると、この「菜々子に」が浮かんできました。

赤い林檎の頬をして
眠っている菜々子。

お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
菜々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた。
お父さんにもちょっと酸っぱい思いが増えた。

唐突だが
菜々子
お父さんはお前に多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待にこたえようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか。
お父さんははっきり
知ってしまったから。

お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。

自分があるとき
他人があり
世界がある。

お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた。

苦労は
いまは
お前にあげられない。

お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
自分を愛する心だ。


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2013年11月27日 (水)

「体は全部知っている」

すっかり初冬の雰囲気な毎日。
昔はもっと春夏秋冬があった気がするけど、
なんだかここ最近は、夏冬が繰り返されてるだけなように思うのは
単に私の季節を感じる感性が鈍くなっているからだろうか。

まぁ、でもこのぴりっとする肌寒さ、大好きなんですけど。
なんだか暖かくぽかぽかぼんやりする気候より、肌のきめまで澄んだ透明の冷たさが入る、
引き締まる感じが好きなのです。

子育ての合間、世の子育て母さんは何をしてるんだろうか。
もちろん家事は別として。
私は専ら読書をしている。育児、家事の合間をぬってなので、少しずつしか
読み進められないけど、むしろそれを楽しみながら毎日ちびちびと頁をめくっている。
サスペンス、エッセイ、長編・短編小説もろもろ。
この間、吉本ばななの「体は全部知っている」を読んだ。
彼女の短編集はあまり読んだことがなかったけど、まさに、子育ての合間に、
気負うことなく読めた本だった。といっても別につまらないと否定するわけではなく、
むしろ肩の力を抜いて共感できるような。

タイトルどおり、からだはときに心よりもさきに、いろんなことを気づいて、感じて、
自分自身に教えてくれる。思うより先にもうからだは
分かっているのだ。
そして、悲しいかなそれは、きっと若ければ若いほど鋭敏なんじゃないだろうか。
年を重ねるに従って否が応でも感受性をすり減らし、
体が感じていることに鈍くなったり、無視してみたり。

「おやじの味」という短編がおもしろかった。

、、、木がびしょびしょに濡れていくのを、じっと見つめていた。それはまるで私達人間が息を
するように、葉は濡れるのを喜んでいるように見えた。つるつる光る表面に透明な
水滴がどんどん流れていく。官能的なながめだった。
私はただ真剣にぼんやりと、雨の日が過ぎていくのを見ていた。
しめった土の匂いや、緑の青臭い匂い。自分にも匂いがあるのだと思った。
発散しているのだ。
、、、久しぶりに食べたオムレツは死ぬほど懐かしい味がして、わたしは、久しぶりに、
生きていることに意味があるような気がして、ビールを飲み過ぎてしまった。
生きていることは本当に意味がたくさんあって、星の数ほど、もう覚えきれないほどの
美しいシーンが私の魂を埋め尽くしているのだが、生きていることに意味を持たせようとするなんて、
そんな貧しくてみにくいことは、もう一生よそう、と思った。

例えば、ゼロ歳の息子が今の生活を記憶に残してるなんてことはないんだろうけど、
体の何処かに、無意識の中にも、自分がどれだけの人に愛されて育ってきたのかを染み込ませておいてくれてたらと思う。

全く本筋とは関係ないが、この間支援センターで息子を遊ばせていた際、
あるお母さんから話しかけられ、「実は以前からお見かけしてました!○○社宅の
1階に住まれてますよね?私、斜め向かいの3階に住んでいるんですが、
娘が同じぐらいの歳なので、ベランダで息子さんをあやされているのをみて
私も頑張ろうと、励まされていました!」
私、ぐずる息子をすっぴん、フリース姿であやしていたんだろうなぁ。。
あぁ、どこで誰に見られてるかわからない。。いつもクールで素敵な母さんで
いたいものです。まぁ、なんにせよ、勝手に誰かを励ましていたのならそれはよかった。
さぁ、年末まであと少し!なんて、なんて時が過ぎるのは早いんだろう!

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